陽と月との間で―明日をのぞむ―

私の物語と私の考えたことを私なりの言葉で紡ぎます。

第二章『近づき』 (その1)

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画像はイメージです

 はじめてSさん夫妻と出会ってから、早くも3年が経ちました。この文章が綴られる時間軸は、私が高校3年生の時代です。一応地域の進学校に合格し勉強に明け暮れる日々が続いています。

 前回も述べましたが、Sさん夫妻との食事会はあの後も数回行われました。基本的には「仕度待ち→歓談しながらのディナー→解散」のパターンでしたが、ゆりさんの服装は必ず私を困惑と歓喜と興奮とに導くものでした。そして今思えば、あれらの「衣装」は、初めて家を訪問した際に私が忍び入った部屋に吊るされていたものばかりだったのです。おそらくは、ゆりさんの衣装は毎回Sさんが選んでいたのではないでしょうか。Sさんの欲望にかなう「衣装」を、奥さんが従順に着こなす。大人になった今だからわかる、特殊で不思議な関係を、あの頃の私はまだ掴みかねて居た気がします。一方で、どんなときにも揺るがない二人の熱い眼差しだけは、私の脳裏に強く焼き付いています。

 

 私はその頃、様々な事に悩み苦しんでいました。将来への不安、学力的な重圧、そして私自身の生そのものに落とす暗い影。様々な抑圧と閉塞、時にはやり場のない哀しみを感じ、常に自身を否定する生活でした。家と学校を往復するだけの日々が続いた高校時代。一年ほどつきあっていた彼女との別れも経験しました。実際は手を握ったことすらないまま、一方的に別れを告げられました。もっと正確に申し上げると、二人の関係性を一歩進めようと提案したときに、驚いたような顔と共に「付き合っているつもりはない」と言われたのでした。今から考えると確かにそうでしたが、あの当時は私を打ちのめすには十分なほどの一言でした。そこから数日間はきっとひどい顔をしていたのだと思います。来週からちょうど夏休みになるという夏のある日。とぼとぼ、というよりも幽霊のようにフラフラしながらの帰宅する途中でした。

「横溝君!」

 低いけれど張りのある、よく通る声が私を捕まえます。

「あっ、こんにちは、Sさん」

「今、学校からの帰り?高校生は意外と早いんだね」

「はい、今日は模試の初日で、英語・数学・理科しかなかったものですから」

「そっか。模試という言葉を聞くのも懐かしいね。手応えはどうだったかな?」

 私はこのとき、きゅうに辛い胸の内を素直に打ち明けたい衝動にかられました。けれど、赤の他人がいきなりプライベートな問題をぶつけてきたら、Sさんと言えども引くんじゃないか・・・・・・。迷った結果、私は言葉を飲み込みました。しかしSさんは私から何かを感じ取ったのかもしれません。いきなり自分の話を始めました。

「僕は学生の頃、頑張っても頑張っても結果の出ないときがあったもんだよ。もしかしたら、今の横溝君もそうかもしれないね。ゆりが言っていたけれど、君は最近いつも青白い顔をして家の前を幽霊みたいに通り過ぎていくって心配してたよ」

 Sさんののんびりとした口調が静かに心に染み込んできます。同時にゆりさんが私を気遣ってくれていることに、温かな喜びと甘酸っぱい気持ちを覚えました。

「お気遣いありがとうございます。確かに、今、自分でもどうしていいかわからないぐらいスランプなんです」

 私は衝動的に弱音を吐いてしまったことを心のどこかで後悔しながらも、少しほっとした気持ちになっていました。

「こんなときはね、わざと勉強から自分を引き離すといいよ。わざと一切の勉強から離れると、意外とすっきりしてまた勉強をバリバリしたくなるものだから。横溝君に今一番必要なのは、普段とは異なる環境でリフレッシュすることだよ。」

 Sさんは、そのままたたみかけるように、

「ぼく達と気分転換に出かけないか?」

 この何気なく見える提案が、今回の物語の始まりになること、そしてSさん夫妻の秘密に触れることになるとは、そのときの私はまったく予想していませんでした。突然の誘い。戸惑いと驚き、そして心の奥底に湧いてくる〝ある期待〟。それらが私の頭の中を渦巻きます。Sさんは私の思いを見抜いたのでしょうか、いたずらっぽい笑みを浮かべます。

「もちろんゆりも一緒だよ。」

 独り言のようにつぶやくSさんの表情は、あの宴のときの顔を思い出させます。

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 それからまた数日経ったある日の休日。私は再びSさんと出会いました。

「おーい、横溝くーん」

 道路の反対側から声を掛けながら、大きく手を振っています。

「こんにちは、Sさん!」

 私はちょうど青に変わった横断歩道を渡りSさんの傍に駆け寄りました。

「散歩ですか?」

「そのようなもんだね、君は?」

「家に居づらかったので、これから図書館にでも行こうかなって」

 考えてみればSさんと私の年齢差は確実に30歳以上あったでしょう。私の母よりも年上だったはずです。しかしSさんの上品な物腰、洗練された服装、そして日々鍛錬している者のみが持ち得る上向きの身体ベクトルが、Sさんの年齢を10歳以上若く見せていました。さらににSさんの豊富な知識量と、それを奢らずにさらりと示す思いやりに、私は深く魅せられていました。気づけばSさんと話をすることをとても楽しく感じ、また私までもが立派な男性であるかのごとき錯覚を覚えたものです。

 もしかすると「こころ」の影響もあったかもしれません。私はこの時期、現実から逃れるように小説を読みあさっていました。特に夏目漱石芥川龍之介中島敦は愛読書でした。漱石の傑作「こころ」では、主人公の書生がひょんなことから〃先生〃と呼ぶ中年紳士と知り合う設定になっています。私も、Sさんと自身との関係を「こころ」になぞらえて、

〃この人は私に心の隔てを作らない、私を素のままで受け入れてくれる・・・・・・〃

そう感じたのかも知れません。

「この前の話だけどさ、都内のちょっと贅沢なホテルに数泊して、そこで羽を伸ばすことにしたんだ。横溝君さえよければ、日帰りで遊びに来ないか?」

 私はただ、日々の圧迫から逃れたい思いと、Sさん、そしてSさん以上にゆりさんと長い時間を共にいられる喜びが込み上げ、二つ返事で承諾しました。

「それはよかった!じゃあ、〇月〇日に××ホテルに来るといい。その後、一緒にショッピングに行ったり、ホテルのプールでリラックスすればいい。もちろん夕食はホテルのディナーを予約するから、一緒に食べてから帰るといいよ。」と、おっしゃってくれました。誰でも好きにならずにはいられない笑顔を見せるSさんを、私は本当に眩しく見つめました。

「僕はスポーツなら大概出来るけれど、泳ぎだけはダメなんだ。横溝君は泳げるかい?」

「はい、クロールと平泳ぎぐらいなら泳げると思います」

「それはありがたい! ゆりも泳ぎはまったくだめだから、是非マンツーマンで教えて上げてよ」

 その瞬間ゆりさんの水着姿が頭に浮かびました。と同時に私はなぜか、何かを直感しました。〃何か〃の中身を、自分でもきちんと形に出来ていたわけではありません。しかしゆりさんと水着という組み合わせが、何故かふいに甘い蜜に溺れ死ぬような息苦しさを私に感じさせたのでした。

「わかりました」

「じゃあ、よろしく頼むよ!でも、当日までゆりには内緒にしておこうな」

 Sさんは何かいたずらを企むような目をしていました。それは純粋ないたずらっ子の瞳にも見え、一方で反論を許さない支配者の目にも見えたのでした。