陽と月との間で―明日をのぞむ―

私の物語と私の考えたことを私なりの言葉で紡ぎます。

桜吹雪と万有引力の法則

今週のお題「桜」

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写真はイメージです

 

 

 舞い散る桜

 舞い落ちる桜

 

 現在の私が住んでいる場所では簡単に桜を眺めることが難しいのですが、昔は桜並木がシンボルだった高校に通っていましたし、若い頃はよくお花見に出かけたものです。そして、その頃の私は桜が美しく咲き乱れ、花びらが風に乗って舞い散る様子を見るたびに、ウキウキとした感情が湧くと同時に、どこか寂しく切なくなる心持ちに襲われました。

 しかし、最近は桜を見つめる私自身の目が変わったように思います。私はさきほど「寂しく切なく」と言いましたが、それは桜=儚さ、切なさのイメージに重ねていたからです。花びらが散る、花びらが落ちる。「分散」と「落下」のキーワードが、形あるもの儚さと命の短さを示しているように思われました。

 そしてこの印象は多くの人に共有されてきたように思います。他にも美しい花は数え切れないぐらい存在しますが、やはり桜が特別に心を揺さぶるのはこの「舞い散る」姿を惜別、終焉、短命などの概念を含むからなのでしょう。

 では私の目はどう変わったのか。それをお話しする前に少しだけ寄り道をします。

 みなさんは「万有引力の法則」をご存じですか?

 

万有引力または万有引力の法則とは、『地上において質点(物体)が地球に引き寄せられるだけではなく、この宇宙においてはどこでも全ての質点(物体)は互いに gravitation(=引き寄せる作用)を及ぼしあっている』とする考え方、概念、法則のことである。」(出典:ウィキペディア

 

 全ての物体は「互いに引き寄せ合う」という考え方。ニュートンのリンゴは「リンゴが地球に向かって落下する」のではなく「リンゴが地球に引き寄せられている」というわけです。そしてここからが大切なのですが、リンゴだけが地球に引き寄せられているのではなく、実は地球もまたリンゴに引き寄せられているのです。なぜなら「互いに」引き合うのが万有引力ですから。リンゴが地球に向かって運動するのと同じく、地球もまたリンゴに向かって引き寄せられている。両者の質量にはあまりに大きな差異があるために、地球側の運動はまったく意識できませんが、それでもやはり地球はリンゴに向かって「落ちて」いるのですね。ということは・・・

 桜の花びらもまた大地に向かって引き寄せられ、地球もまた一枚一枚の花びらに向かって引かれていく。かたや何万、何億という花びらの群れと、かたや想像を絶する巨大な大地が互いを欲して引かれ合う(惹かれ合う)姿・・・。

 桜の舞い散る姿。

 桜の舞い落ちる景色。

 それは全てのものが何かしらの引力をもって惹かれ合うことの素晴らしさを私に教えてくれます。花びらと大地。無限の花びらととてつもなく巨大な大地の互いを結びつけようとする運動は、互いが求め合い、結びつき、そしていつかは一つになれることの希望を私に教えてくれます。私の中で、桜吹雪はもはや切なさの象徴ではなく、切望・希求・融合としての「出会いの景色」なのです。

 

 そしてこの景色はもう一つの感情を私の胸に抱かせます。それは「勇気」です。共に意思を持たない花びらと大地。こんな無生物でさえ、互いを求め合っているのです。生命同士が、ましてや人間同士が惹きつけ合えないことがあるでしょうか。心を持たない者同士すら、互いを求めあって無限の運動を繰り返すのです。どうして心を持つ私たち人間が、互いを切望し、連帯を希求し、融合を目指さないままで良いのでしょうか。そんなはずはありません。たった一枚の花びらでも出来るのです。私たちにも出来るはずです。地域、世代、宗教、民族、国家を越えた連帯が、融合が。

 

 桜の花びらが大地に惹かれ行く姿を眺めながら、その一枚一枚から勇気をもらっている弱虫な私です。さあ!新しい時代の幕開けです。頑張るぞ!

「卒業」  ―人間の叡智―

今週のお題「卒業」

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写真はイメージです

 

 

 はじめまして。この度「はてなブログ」に参入したのぞむと申します。ブログ歴はそれなりにありますが、はてなブログにおいては新参者です。宜しくお願いします。お題ブログのシステム、とても面白い試みですね。自分もちょっと挑戦してみたくなりました。文章がまとまればよいのですが・・・。

 

 今週のお題は「卒業」。私がこの言葉を聞く度に思うこと。それは人間の偉大さについてです。「卒業」は人が創り出した様々な営みの中でも、特別に奥深い叡智を湛えた機能ではないかとすら感じます。

 

 話が脱線するのですが、「時間」とは一体何でしょうか?

 一般的に私たちがイメージする時間とは〃直線・無限・連続〃だと思います。水道の蛇口からツー…と流れる細い細い一筋の水脈。あるいはどこまでまっすぐな緩い坂道を転がり続ける空き缶。二度と元には戻らない、そしていつまでも、本当にいつまでも終わりなく続く〃流れ〃。「時間」をこんなイメージで捉える人も多いと思います。

 

 そして、この「直線・無限・連続」は、たまに私たち人間を苦しめることがあります。例えば、こんなふうに……。

 

(その1)勉強を疎かにしていた太郎君。「うーん、まずいなあ」と思いつつ、今日もダラダラ。一昨日も怠けた。昨日もサボった。たとえ今日頑張っても、今まで何もしなかった自分を思うとやる気が出ない…。

(その2)失恋した花子さん。どこに行っても、何をしても、すぐに好きだった彼を思い出し涙が溢れる。笑い転げた去年が、肩を並べた先月が、触れ合ったあの日が、今は花子さんに痛みだけを与えている…。

(その3)若い頃、自身の至らなさから人を傷つけた。親になった今だからわかる。あのときの自分の弱さ、未熟さ、卑小さを。のぞむ君は傷つけた人の今を想い、夜も眠れなくなるときがある…。

 

 人は「時間」が持つ、どこまでも真っ直ぐに続く現実にたじろぎます。絶対的な不可逆性、途方もない連続性と無限性に声を失います。幼いころの傷、昔の過ち、過去の記憶。イマを生きようとする自分に対してブレーキを掛け、推進力を奪い、立ち止まらせてしまう負の力を、「時間」は持っています。「時間」にはもちろん、楽しい思い出・嬉しい記憶・輝かしい過去といった正の力もありますが、人はときに正よりも負に目が向いてしまうものです。

 

 抗いがたい「時間」の力。恐ろしいほどの「時間」の呪縛。私たち人間に為す術はないのでしょうか。いたずらに「時間」に打ちのめされるだけなのでしょうか。

 

 勘の良い方はもうおわかりだと思います。

 私たち人間は、時間を断ち切る方法を編み出しました。それが「儀式」です。入学式、卒業式、成人式、結婚式……。私たちは切れ目のない連続体としての「時間」にくさびを打ち込み、〃節目〃を刻むことで自らの心と体を一新しようと考えました。日付、曜日、季節、元号、世紀。これらの自動的な刻みと共に「儀式」を埋め込むことで、人は体よりもむしろ心に刻みやけじめを創り出し、自身を新しくすることが出来るようになったのですね。

 

 もちろん「入学」「成人」「入社」など、入り口の設定によって心を新たにすることも重要です。しかし「卒業」だけは少し異なる意味を持ちます。それはやはり「過去」「昔」からの決別です。良いことと悪いこと。喜びと悲しみ。笑顔と涙。それらをひとまず「思い出BOX」に詰め込んで丁寧に蓋を閉める。それをそっと心の片隅に整理したなら、さあ!新しい扉を開けて行こう!身体的に何も変わらないはずの自分、日々の暮らしの中で変化の見えない私に向かって〃一つの時代が終わったよ〃と語りかける。自らを認め、受け入れ、そして慈しむ。そんな大切な要素が「卒業」には詰まっている気がします。

 

 「卒業」。やっぱりこの言葉には、そしてこの営みには、何度でも新しくやり直すことの出来る私たち人間の可能性を感じます。過去を思い出としてきちんと区切り、未来を見すえて新しい一歩を踏み出すための深い智恵が、この言葉と儀式に込められている気がするのです。

 

 三月もそろそろ終わり。

 

 学校を卒業する人

 職場を卒業する人

 

 地域を卒業する人

 仕事を卒業する人

 

 親を卒業する人

 子育てを卒業する人

 

 恋人を卒業する人

 夫婦を卒業する人

 

 


どの「卒業」も、新しい未来のために用意された「区切りの営み」として大切なものだと思います。みなさんはどの「卒業」を迎えますか?どんな卒業であっても、私は手をぶんぶん振りながら、大声で叫びます

 

「ご卒業!おめでとうございま~す!!」

 

 

 

 

 

                                                      

 

第一章『出会い』 (その1)

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※画像はイメージです


※私個人の半生を出来るだけそのままに記しています。そのために一部にどうしても性的 な表現及び読むことが辛くなる部分が生じてしまうことを、先にお詫び申し上げます。もちろん扇情的な表現がメインではなく、あくまで物語として語る上で必要不可欠だと考えております。これからお読みになられる方は、その点をご了承下さい。

 呼び鈴の前に立つと、抑えていたつもりの鼓動が再びスピードを上げました。こころなしか指先が震えます。〝落ち着け!ただの食事会じゃないか!〟と念じる私の心とは裏腹に、その震えは少しずつ脚にまで伝染していくように感じられました。私は大きく息を吸い込むと、そのまま指に力を込めて私の到着をボタンに伝えました……。 

 

 

 読者のみなさん! 突然ごめんなさい。少し興奮して、いきなり物語に入ろうとしていました。改めて……時代と舞台のご説明、そして自己紹介をしたいと思います。そうすることで今、私が誰の家の前に立ち、何のために呼び鈴を鳴らそうとしているのか……おわかりになると思います。 

 物語の時間軸は80年代を迎えようとしている時期を想像して下さればよいでしょう。喧騒と倦怠、希望と不安、そして恍惚と覚醒とが相半ばするあの時代です。舞台は神奈川県の地方都市、いわゆる「〇〇ニュータウン」と名のつく新興住宅地です。 

 私の家は、一生懸命個性を出そうとしながらも結局小手先の変化で終わってしまった建売住宅群の奥に位置しており、そこから先は未開拓の調整地区が広がっていました。その空地の一角に、これまでの画一的な住宅群とは明らかに趣の異なる一軒が現れたのは、ちょうど今から半年ほど前です。大抵の人はその家を「豪邸」と呼ぶでしょうし、またその名にふさわしい大きさを備えていました。凝った造りでありながらも落ち着いた様子は、当時中学三年生になったばかりの私にもわかりました。

 しかし正直に申し上げますと、生活感の伝わらない無機質的な印象を受けたのもまた事実です。どこかのモデルハウスを見たときの、乾いた寂しい匂いが漂う……そんなイメージです。そこに一組のご夫婦が移り住んできました。これからお話しする物語は、この二人を中心に進んでゆきますので、ご紹介はそのときに譲ります。

 

 私?私のことですか?ああ、すっかり忘れていました。では改めて自己紹介を。名前はのぞむ。「横溝のぞむ」と申します。暗く大人しく、孤独を抱え込むタイプの少年を想像してもらえればOKです。身長だけは高いぶん、よけいに〝ひ弱さ〟が浮き立つイメージです。敢えて特長を探せば〝目〟でしょうか。大きな瞳と長い睫毛。そこだけはきっと女性に嫉妬されるかもしれません。

 成績はよいほうです。自分で言うのもなんですが努力型ですから。ただし学業に打ち込むのは複雑な家庭環境からの逃避でもありました。さあ、私の自己紹介はこれぐらいにして、冒頭の部分に至るまでの経緯をかいつまんで説明しましょう。

 

 例の豪邸に移り住んできたご夫婦がご挨拶に来たのは、春もそろそろ終わりをつげ、梅雨の匂いがアスファルトから微かに立ち昇る時期でした。来客を告げるチャイムの音に弾かれた私が玄関を開けると、手前に背筋がしっかりと伸びた〃若そうな〃男性、その奥に美しく〃本当に若い〃女性が立っていました。 

 「はじめまして、これからお隣さんになるSという者です。お父さんかお母さんはいらっしゃる?」 

 深みのある、芯の通った声が心地よく耳をくすぐります。まるで紺碧の海から響き渡り、浮ついた心を静かに整えてくれる優しい声。その声を耳が反芻するのを楽しみながらも、私はおどおどしながら答えました。 

 「ご、ごめんなさい。父も母も、今は誰もいません。どのようなご用件ですか?後で伝えておきますが……」 

 男性はきっと私の緊張を瞬時に悟ったのでしょう。一層深く優しい声で 

 「あ、いやいや、ご用件っていうほどのことでもないんだけどね、お隣さんになるんだから挨拶をしたいと思って。これ、ご家族でどうぞ」 

 すると、後ろで佇んでいた女性がするりと入れ替わり、柔らかな風呂敷包みから重そうな土産物を差し出してきました。その荷物を支える女性の腕や指先があまりに白く美しかったので、私の視線はお土産の品よりもそちらに釘付けになってしまいました。しかし女性は私のぶしつけ眼差しを気にする様子もありません。

「どうぞ!つまらないものですが……」 

 そこだけ光が差し込むような笑顔を向けながら,彼女は土産物を手渡してきました。正直なところ、この後の会話はほとんど覚えていません。ただ、中の良さそうな一組の夫婦と、そして美しい女性の艶やかな唇だけが映像としてぼんやり残っている程度です。

 この日以来、お隣のSさんご夫婦とは、庭先や道で出会った時などに会釈をする程度のお付き合いが始まりました。これからは男性を「Sさん」、そしてその奥様を「ゆりさん」と呼ぶことにします。

 

 私はその当時寂しく、暗く、辛い毎日を送っていました。心が押しつぶされそうな痛みと孤独の中でなんとか日々をつないでいた……そんな時期でした。(その理由はこれからの長い物語の中で徐々に明かしていくつもりですが、今はお待ち下さい)

 ある日のこと。学校からの帰り道にちょうどSさんがバスから降りて、帰り道を共にすることがありました。彼はいつも決まってこの時間に帰るらしく、それは私が急いで家に戻る時間と重なっていました。帰り道、少し緊張する私に彼は優しく楽しい話を振っては、私を笑わせ感心させてくれました。あんまり楽しい道のりだったので、別れ際には暗い家に帰るのが嫌で、思わずSさんの後姿を目で追ってしまうほどでした。

 それからは、私はなるべくSさんがバスで到着する時間に会わせてバス停の前を通り、偶然を装いながら一緒に帰ろうと試みました。月に1~2回は肩を並べて帰ることができる日があったと思います。その時にはまだ、私は自身の境遇を詳しく伝えることはありませんでした。今から考えると、Sさんは私から聞く情報を通してなんとなくではあっても私の身の上を理解してくれていた思います。しかしそれを表に出したり、これみよがしなアドバイスなど押しつけたりはしませんでした。ただずっと聞き役に回ってくれたこと。そのときの私も最も欲していたものを、Sさんは与えてくれました。それは私にとってとても貴重なものでした。

 

「のぞむ君、君をときどき夕食にご招待してもいいかな?」 

 何度か一緒に帰る道の途中、ふいにSさんは改まった口調でそう切り出しました。 私はまだ中学生で、気の利いた返事もできず、もごもごしていると、 

「ぼく達夫婦はいつも二人きりでご飯を食べるから、たまには誰かを招待して賑やかなディナーを味わいたいだけだよ。別にすごい料理を食べさせて上げるわけじゃないけれど、ぼく達のために来てくれるならありがたい」 

 いつもほとんど自炊をし、一人で食べていた私にとってその申し出はとても嬉しく、首をぶんぶん縦に振り、勢いよく頭を下げました。  

 本音を言えば、ゆりさんとお会いできる、そしてお話ができる、さらには彼女の作った手料理が食べられる。それが私の隠れた喜びでした。我が家に挨拶に来たあの日以来、ときどきゆりさんを見かけることがありました。いつも軽く会釈をし、ゆりさんも頬笑みながら手を振る程度の関係で、きちんと話をしたことはまだ無かったのですが、美しい姿にいつも見とれてしまう自分がいました。

 彼女は意外と背が高く、比較的長身だった私(中学3年生のときには、175㎝ぐらいありました)からみても、スラリとした容姿をしていました。どちらかと言えばスレンダーな体型に属していたと思いますが、それは彼女の着る服装がそう見せていたのかもしれません。このときの私は彼女のつややかな髪と、ビロードのように滑らかで白い肌に惹かれていました。

 ゆりさんの家に行ける・・・

 ゆりさんの家に入ることができる・・・

 そう考えただけでなんだかドキドキしてしまいます。Sさんには申し訳ないのですが、私はゆりさんと同じ空間に居られることの方に遥かにトキメキを感じるのでした。

 

 約束の日がとうとうやってきました…。ここで、ようやく物語の冒頭の部分に話が戻る事になります。そして……その日から私は男女の不思議な関係を少しずつ眺め、学ぶことになるのです。それが今の私を形成していること、私の人生の核となっていることだけを申し上げて、今日はひとまず筆をおくことにしましょう。

「のぞむの物語」へようこそ

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誰にでも

誰にも言えない過去がある。 

誰にでも

誰かに伝えたい想いがある。

誰にでも

誰かと歩みたい未来がある。

 

これは一つの物語。 

これは愛の物語。

 

これは一つの宝物。

これは愛の宝物。

 

過去を静かに振り返り

未来への糧とする

 

喜びのあぜ道を 

哀しみの轍を

共に歩いてみませんか?

  

私? 

私は「横溝のぞむ」。

ーようこそ!「のぞむの物語」へ。

 

「はじめまして」に代えて

「時間って本当は『円』なんじゃないかな?」

 今日、青い空と美しく咲き始めた花々を眺めながら、ふとある哲学者の言葉を思い出しました。そしてこの言葉の深さに心が動きました。

 

 私たち現代人は時間を直線だと思い込んでいます。過去は二度と還らず、未来へ向かって一直線。不可逆的な一方通行としての時の流れ。

 若い頃はまだ、直線的な時間が気になりませんでした。辛い過去は早く忘れて、新しい未来に飛び込みたい。一日でも、一時間でも、そして一分でも、未来が待ち遠しい。明日のあることを信じて疑いませんでした。

 しかし、最近は少しだけ変わりました。「時間は円」という思想に心惹かれるようになりました。朝が来て、昼になって、夕方が訪れ、夜を迎える。そしてまた朝が。

春が過ぎ、夏を過ごし、秋を楽しみ、冬を恨みつつ、そしてまた春の訪れを喜ぶ。時間は決して一直線に行き過ぎるだけのものではなく、再び私に訪れてくれる。そんな優しい時間のあり方を素敵だな、と思える歳になりました。

 私は再びブログを始めます。かつてブログで得た友情。勇気、そして愛。それらは過ぎ去るものとしてではなく、再び巡ってくる「円」としてブログを綴ります。あっ、もしかして「円」と「縁」は同じ心から発した言葉なのかもしれません。

 ご挨拶が申し遅れましたね。

 私は横溝のぞむと申します。このブログで円環の時を慈しみつつ、新しい友との出会いに心躍らせているおじさんです。どうぞ宜しくお願いします。