陽と月との間で―明日をのぞむ―

私の物語と私の考えたことを私なりの言葉で紡ぎます。

第三章『触れ合い』 (その1)

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画像はイメージです

 女性服売り場へ向かうために三人でエスカレーターを降りながら、私は奇妙な浮遊感を感じていました。目的地までの道のりが遠く、照明がいつもよりも煌びやかで妙に目に映りこんできます。光沢のある大理石調の床が、Sさんとゆりさんの足下を照らしていました。映画のヒーローとヒロインが私の目の前を闊歩してゆき、その光景に見とれるファンがドキドキしながら後をついていく・・・・・・そんなイメージです。なぜか現実の出来事とは思えない、艶めいた大人の童話の世界に迷い込む錯覚さえ覚えます。

 

 二人が向かったのは、高校生のような私にさえ名前を知っている高級ブランドの店舗でした。ゆりさんは慣れた様子で店内に入ると楽しそうに選び始めます。女性にしてはさほど迷いもせず、ゆりさんは候補を選び出しました。確か3~4着程度だったでしょうか。どれもゆりさんに似合う美しく優雅なワンピースでした。今、ゆりさんが来ているワンピースよりは露出も少なく、いわゆる「上品な」印象のものばかりでした。一着は袖があり、残りはノースリーブ調のもの。そして2着は膝上のタイトミニで、残りはフレア調と言ったところでしょうか。当時は女性の服のバリエーションに疎く(まあ、今でも詳しくはありませんが)、おおざっぱにしか理解していませんでしたが、そんな私でも一目で「品格」「優雅さ」と言ったキーワードで括る事のできるものばかりです。 

「この中から一着選びたいのだけれど、どれがいいかしら。」

ゆりさんは美しい額に少しだけ影を刻みながら私に問いかけます。

「うーん、どれでもゆりさんに似合うと思いますけど。」

私は思い切って大人びた、けれど本心を言ったつもりでした。しかしゆりさんは笑いながら

「おばさんだからってからかっちゃダメよ。みんな高くて全部は買えないから、どれかに絞らなくちゃいけないの。私はみんな気に入っちゃって正直選びきれないから、横溝君にお願いしているんじゃない。」

 ゆりさんが口をとがらせながら私に詰め寄ってきます。 私はどぎまぎして思わず後ずさりをしてしました。同時にかすかな後悔の念が湧いてきます。素敵な女性の前で臆さず対等に渡り合えたら……。

「Sさんはどれがいいと言っているんですか?」

「主人は『どれでもいいよ、全部似合ってるよ』なーんて適当に言うのよ。あっ、考えてみれば横溝君と同じ事言ってる!やっぱり君も私の服を選ぶのは面倒くさいと思ってるんでしょ!」

 ゆりさんが軽く私をつねろうとする動き。私はそれを受け止める年下の男性の純粋さをアピールすべきか、かわしつつさりげなく振る舞う大人を演出するべきか一瞬迷いましが、後者を選びました。と同時に心の中で少しずつ余裕が生まれてきます。 

「今日買う予定の服は、何か目的があるんですか?例えばお仕事で着るとか、Sさんと旅行に行くための服とか、あるいは同窓会出席用だとか……」

 私の言葉が全ていい終わらぬ前に、ゆりさんは急に目を輝かせました。

「横溝君、すごいわ!そうそう、本来、服って雰囲気や状況に応じて選ぶものでしょ。でも、そんな風に聞いてくれた人は店員さん以外では君が初めてよ。今回の服は基本的には外出用だけど、たぶん友達と会ったり、一人でふらっと買い物に行くときの、みたいな感じかなあ。」

「なるほど……。だったらこれなんかいいんじゃないですかね」

 私はいかにも考えるふりをしながら、ある服を指さしました。けれど、実は示された数着の服を見たときから、私は既にある服に絞っていました。それは私自身の好みであり、そしてきっとSさんの好みでもあるだろうと感じていたからです。

 その服は真っ白で輝きのある布質でした。デザインも上品で、切り返しがはっきりしており、ノースリーブの袖と膝上のタイトミニが彼女の体を一層美しく見せる細身のデザインでした。生地は〝秘密の宴〟や、今着ているワンピースのような透け感も無く、柔らかな風合いのものです。

 私はハンガーを持ち上げてゆりさんの体に当てる仕草をしながら、洋服との相性を確かめました。いえ、もっと正確に表現するならば〃相性を確かめる大人の振る舞いをしました〃となります。こうしてゆりさんの服を見繕う自分は、とても大人で洗練された人間のようです。その喜びは、私の肌の奥側からサワサワと湧き出てくるものでした。

 そして実際、ゆりさんとその服はとても似合っており、白い肌と渾然一体に溶け合うイメージが、逆にヌーディーな魅力すら与える様子は圧巻でした。ちらっと値札を見て、思わず声を出しそうなほど高かったのも衝撃でした。

「僕もその服がいいと思ってたよ。やっぱり横溝君と僕は趣味が一緒だね!」

 いままでどこにいたのか、Sさんが急に背後から声を掛けてきました。その時私は我に返り、ゆりさんから少し離れました。ゆりさんのほうは私の動きにまったく気づかず、Sさんのほうを見ると呆れたような顔をします。

「まあ、あなたったら。私が聞いたときには『どれでもイイよ』って言ってたくせに!ずるいわね、ねえ、横溝君?」

「まあまあ、そう言うな。でも本当に似合うよ。一度試着をしてみるといい。向こうに試着ルームがあるから行こう」

 怒る〝ふり〟のゆりさんに頭を掻きながら謝る〝ふり〟のSさんを眺めながら、そのわざとらしさが逆に互いの愛情の確認であることをぼんやりと眺めていた私に、Sさんが声を掛けます。

 

「あれ?横溝君も一緒においでよ。女物の店に一人だけ男がいても浮いちゃうよそれともこのまま残るかい?」

「あっ、いや、は……はい……」

「それにゆりの試着、手伝ってあげてよ。」

「手伝う?」

 私は思わず聞き返しました。するとSさんはゆりさんの顔をじっと見据えながら

「ねえ、ゆり。君も横溝君に手伝ってほしいだろ?」

 そのときのSさんの顔を私は今でもはっきりと思い出すことができます。それは小ウサギを崖の端まで追い詰めたオオカミのような、あるいは身動きできずに硬直したカエルにゆっくりと近づく蛇のような、〃捕食者〃のギラつく瞳でした。

「はい。私も横溝君に手伝って欲しいと思ってました。」

 ゆりさんはなぜか敬語になり、震える小さな声で答えました。それと同時に、ゆりさんのチョーカーに巻かれた折れるほど細い首が大きくうねりながら息を吸い込む様子を、私はただぼーっと見つめていました。

「あ、あのー。試着室はとても狭いので二人も入れないですし……そもそも女性の試着ルームに男が入るのはお店の人も嫌がるっていうか……」

 私が口ごもりながらもすがるように反論する声を、Sさんは半ば遮るように、

「大丈夫だよ。僕らはここによく買い物にくるから、お得意様として別な個室が用意されているんだ。ただの試着室じゃない。〝試着ルーム〟さ!」

 その声は丁寧で優しいのです。しかし同時に低く太く、反論も拒否も許さない強さがありました。私もゆりさん同様に半ば夢見心地のまま返事をします。

「そう…なんですか。それなら安心ですね。」

 

 今から考えると場違いで間抜けな返しだとわかりますが、そのときの私の目はただひたすらにゆりさんに向けられていました。ゆりさんしばらく私に済まなそうな顔を向けていました。しかしその目の縁はほんのりと朱に染まり、濡れたような唇は妖艶な舌が這い回りそうな厚みを持って開いていました。そして、その顔がそのままSさんへと向けられたとき、私ははっきりと自覚しました。

〝ゆりさんもこの状況を望んでいる!?〟

いや、もっと正確に表現しましょう。

〝ゆりさんはこの状況を望んでいるSさんの望みを叶えられる自分を望んでいる!〟

この瞬間、たわいのないショッピングがこれ以上ない官能的な輝きを持った〝劇場〟へと変わっていくのでした。