陽と月との間で―明日をのぞむ―

私の物語と私の考えたことを私なりの言葉で紡ぎます。

SMの名言

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画像はイメージです

 昔、それもかなり昔の話です。友人の友人の、そのまた友人の・・・・・・というよくあるパターンで、一人の年上女性と知り合いました。その女性は自ら「SM大好き」を公言する女性でした。鼻筋の通ったクールビューティーで、日頃は男性の部下を顎でこき使うバリバリの働きたガール(ちょっと古いですね)でした。

 私は当然「バリバリのSなんだろうな」と思っていましたが、実際はまったく反対で「筋金入りのドM」だと言っていました。

 では、どれぐらい「ドM」なのか。それはもう私のような〃見かけ倒し〃とは異なり、文章に表すこともためらわれるほどの領域でした。

 もしも私が同じ事をされたら、恐怖と苦痛のあまり気を失うか、「いっそ殺してくれ~」と泣きわめくか。それほどハードな内容を、こともなげに話します。

 挙げ句の果てには「ほら!昨日も楽しんだよ!」とタイトなミニを少しめくると、そこには青とも紫とも、または赤茶とも判別しがたい内出血のような地図が広がっているのでした。

 

 「姉さん!体を大切にして下さい!」

(私はその日とを『姉さん』と呼んでいました)

叫びたくなる気持ちをぐっとこらえて、彼女の問わず語りに耳を傾けます。

 

 「痛いよ。痛みは他の人と一緒だよ。でもね、なぜかそこに生きてる~っていう気持ちがこみ上げてきて気持ちよくなるんだよね~」

 「自分の小ささや弱さ、ダメな所をそのままさらけ出して、それを誰かに叱ってもらえる。そんな心地よさかなあ」

 

 きっと私は怯えた目をしていたのでしょう。彼女はにっこり微笑み言いました。

 

「大丈夫!私だってこれだけは譲れないっていう掟があるから」

「掟?どんな掟ですか?」

 

すると彼女は急に背筋を伸ばし、真っ赤な口紅の艶めいた唇をゆっくり開きました。

 

「SMってね、『何をするか』じゃないの。『誰とするか』なのよ」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 私は今でもこのときの彼女を鮮明に覚えています。

「何をするか」ではなくて「誰とするか」。

 セックスに正解はありません。変態もアブノーマルもありません。

もしも当人がそれを楽しんで受け入れているならば。

当人の寄り深いつながりのためのものならば。

そして他の人に迷惑をかけていなければ。

 

 私のような素人はSMの内容の過激さに目を奪われ、そこに至るまでの二人の心に思いを馳せることはありませんでした。けれど本当に大切なことは内容ではなく、対象との心の交流です。そこが満たされているならば、後は「二人の世界」なのでしょう。

 

「何をするか」ではなくて「誰とするか」

これって、SMだけではなくいろいろなことに当てはまりそうです。

 

 彼女も今では還暦に手の届きそうな熟女。さり気なく尋ねたら

「馬鹿じゃないの?私も旦那ももうそんな気力はないわよ!今は極普通のセックスばかりよ」とこともなげに話してくれました。

 

さすが!姉さん!

今でもカッコいいっす!

 

 

 

 

第二章『近づき』 (その4)

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画像はイメージです

 私はSさんを目で探しました。しかしどこにも見当たりません。なおSさんを探そうとキョロキョロしましたが、なかなかSさんの姿を捉えることが出来ません。

 

「ゆりさん、Sさんはどこに居るんですか?」

「少し疲れたから向こうのベンチに座っているよってさっき言っていたわ」

 

 ゆりさんの明るい声が響きます。その間も彼女の手や体の感触は、私の身体の様々な箇所を這い回り刺激しています。

 私が遠くのベンチに目をやると、果たしてそこにはSさんの姿がありました。遠くから私たちの様子をじっと見つめています。距離こそ遠いのですが、異様な目の輝きははっきりとわかります。食事会の時に見られる、あの複雑な視線です。嫉妬、誇り、怒り、興奮・・・。全てが入り交じった本当に不思議な目の色です。時折、Sさんの視線は周りの男性にも注がれます。それは明らかに嘲り、見下し、優越の目の色でした。

 そんなSさんの目を見つめるうちに、私はふと自分自身の姿を重ねました。私もSさんと同じように、他の男性に対して優越感と誇りを持っている……。今、この瞬間だけとはいえ、ゆりさんが私の体と密着している。男なら誰もが喉から手が出る程に欲望する女性を、我が物としている……。これはまったく新しい感情でした。

 それまで、私はどちらかと言えば奥手でした。部屋でこっそりと自身の欲望を処理するとき、その対象はあくまで雑誌やビデオなど、媒体に現れる記号としての女性であり、固有の〝誰か〟ではありませんでした。

 以前、昼休みにクラスの〃イケている男子たち〃誰を『おかず』に、つまり自慰の対象とするかで盛り上がる場面に居合わせたことがあります。私はその輪に加わることなく(正確に表現すると〃加われず〃ですが)、少し離れたところから耳だけをそばだてて聞いていました。彼らがセックスシンボルとして有名な某女優やアイドルと共に、クラス内の女子の名前を挙げたとき、私はとても驚きました。日々の生活の中で現実に接する機会のある女性を〝おかず〟にする。それは私の中では罪悪感を覚える、後ろめたいものだったからです。

 ましてや、女性に対して〝支配・制御〟の感情を持つこと、あるいは〝所有・占有〟の感覚を持つことなど、想像さえできません。しかし今、私はゆりさんを支配している。所有している。そして〝私の〟ゆりさんを、周りの男たちは羨望と嫉妬の眼差しで見ている。彼らは指を加えて魅入るしかない。その状況が私の体の隅々まで満ちたとき、恍惚とした快楽にも似た感情の昂ぶりを覚えました。

 

 ゆりさんは再び私の正面に戻り、いきなり腰を屈めました。ウエストを測るためです。ゆりさんの柔らかな額とそよぐ前髪を上から見下ろした瞬間、私は決心しました。

 

〝Sさんもゆりさんも……わざとなんだ。ならば僕だってもそれに乗っかってやろう〟

 

 そのときの私は二人に対する憧れや親愛の情とは異なる心の澱を持て余していました。弄ぶ大人への反発心。そしてそれ以上に、この状況そのものへの興奮が急に高まったのかも知れません。

 私はゆりさんの肩にそっと触れました。その瞬間、ゆりさんの体の動きがピタと止まります。私は全神経を指先に集中し、微かな動きからゆりさんの感情を読みとろうとしました。しかし私の指先から流れ込んでくるのは、戸惑いと緊張のみで、嫌悪や拒否の波はありません。私は指を少しずつ増やし、やがて肩に手の全体を置く形となりました。私は細い肩の感触を確かめるように、指先に少しだけ力を入れてみました。

 ゆりさんの肌は想像通り、いや想像以上に滑らかでした。柔らかく、それでいてしっかりと反発します。若いだけが取り柄の女性の、堅いつぼみとはまったく異質の、吸い付いて離れない官能的な感触です。ゆりさんの肌が少しずつ汗ばみ、湿り気を帯びてくるのがわかります。そして私の触れた辺りから肌そのものが徐々に上桜色に染まるのを、私は見逃しませんでした。私はさらに自身の腕をゆりさんの首筋に移動させようと画策します。

 

「採寸は終わったかい? ゆりはしつこいから横溝君も閉口しているだろう?」

 

 ふいに私の背後から声がしました。その声には様々な感情が渦巻きながらも、それを必死に抑えるがゆえの微かな震えが感じられます。振り返ると、そこにSさんが立っていました。ゆりさんはゆっくりと立ち上がりました。

「ええ、ちょうど今終わったわ。横溝君は意外と着やせするタイプなのね。ひょろひょろしているように見えて、実はけっこう筋肉質かも。」

 

瞳は濡れたように輝き、声も艶めいています。

 

「ありがとうございます。こんなオーダーメイドの服なんて初めてなんで、ゆりさんにサイズをいろいろと測ってもらいました」

 

 私もまた、筋書きを全て知っているにも関わらず、何もしらないふりをしている演者のごとく、何事もなかったかのように振る舞います。

 ……私の買い物は無事に終わり、三人は婦人服売り場へと移動を始めました。先ほどとは異なり、Sさんとゆりさんとが並び立ち、私はその後を少し遅れて付いてゆきます。しかし……このフロアに来る前とはまったく異なる景色が、私の前には広がっていました。 

 何かが違う……何かが変わった……。私はそう感じていました。それは上手に言葉にすることが難しい、小さな、かすかな差異でした。それでも敢えて表現するならば……

 

〝タテからヨコへの変化〟でしょうか。それとも

〝主従を超えた強い絆〟でしょうか。

 

 今まで抱いていた、一方的な関係ではない、もっと深くもっと濃密な二人の間の愛のあり方を、目の前の二人の背中が私に語りかけてきます。

 私の興奮と混乱とをよそに、物語は更なる艶を帯びながら新しいフロアへと三人をいざなってゆきます……。

性欲は本能か?

headlines.yahoo.co.jp

 

 この手の事件が報じられる度に〃お決まりのセリフ〃をのたまう上司がいます。本当は上司と名づけることにも憤りを覚えますが、この上司はいつもこう言うのです。

 

「性欲は本能だからねえ。いかんともしがたいんだよねえ。」

 

誰に聞かせたいセリフなのか。それとも自己弁護を兼ねているのか。さっぱりわかりませんが、この言葉を聞くと本当に〃イヤ~な〃気持ちに陥ります。

 

 性欲が他の本能、例えば食欲、睡眠欲、排泄欲などとは異なり、必ずしも純粋な本能とは言いがたいことは、当たり前のことではありますが改めて再確認したいと思います。少々重苦しいお話になりますが是非お付き合い下さい。

 

 上記で挙げた「食欲、睡眠欲、排泄欲」などはまさしく「欲求」です。「欲求」とは、本人の意思とは関わりなく、自身の生存を保証するために勝手に起こる現象です。例えば、あまりにお腹が空いていれば人の食べ物を盗んでも食べてしまいます。すごくおしっこをしたくなったら、例え人前でも漏らしてしまうでしょう。他人の有無、状況の如何に関わらず発動し、当人でもどうしようもないのが「欲求」です。

(たまに超絶的な意志の持ち主が、ハンガーストライキを試み、見事餓死するなどの事例はありますが、それは本当に例外的なことです)

 

 それ対して「性欲」は「欲求」というよりも「欲望」に近いでしょう。「欲望」には、他者の視線の介在が不可欠です。

 例えば、ブランドバッグが欲しいという欲望は、それを持つことで「ブランド品を持てるだけの財力がある証」、あるいは「ブランド品をセレクトできるセンスのある私」、またあるいは「ブランド品に対して鋭いアンテナを持つ時代に敏感な私」を他者に承認してもらいたいという「欲望」に他なりません。

 

 そして、性欲もその他者の視線をたまらなく欲する欲望であり、純粋な「欲求」とは根本的に一線を画すものだ、と私は考えています。

 男性が女性を求めるとき、その女性に対して快楽を与えられる逞しい存在、あるいは女性が体を預けさせる程の魅力を持った存在を、自身でも自覚をしたいという「欲望」が介在しているでしょう。それは時々(いや、かなり頻繁に)男性の勘違いとして現れる場合が多いのも悲しい事実です。

例1 体をムキムキに鍛えれば、女性がメロメロになると思っている。

例2 男根は大きければ大きいほど、女性が喜ぶと思っている。

例3 機関銃のような素早いピストン運動で女性はみんな快楽に溺れると思っている。

 一方で、女性の性欲もまた、SEXを通した「自己存在の確認」「誰よりも愛されているという確証」「守られる、包まれているという安心感」への「欲望」であり、肉体的な快楽は二の次と言ってもよい場面があるかもしれません。

 

 民族間で紛争が起こるとき「民族浄化」と称して、男性が敵部族の女性たちを次々に性的暴行するという悲しい事実があります。このときの男性は決して単純な「性欲」で動いてはいません。自身の部族の優越性を示し、敵部族の男性へ屈辱感を植え付けるための儀式なのです。そこには「怒り、支配」といったキーワードが存在しており、決して女性に対する単純な肉欲だけでは語れない闇を背負っているのです。

 

 繰り返しになりますが、性欲は決して単なる本能的欲求ではありません。感情的にも理性的にも、時には政治的にも起こりうる、立派な「文化的行動・文化的行為」なのです。

 

だからこそ私たち男性は、そこに節度やモラル、人としての尊厳を意識する必要があるのです。「性欲は本能だから仕方ない」という人は、本能という口実の元に自身の行動を正当化しようとしています。それは大変危険な発想です。

 例えばどんなに性欲が強まろうが、白昼の路上で女性を守る父親や兄弟、恋人たちの前でも強引に性行為に及ぶことは普通ありえません。性的な暴行はほとんど、暗闇からずるい方法で狙うものです 

 性の問題を「本能」で片付けるとき、人は自らの尊厳を放棄しているのと同じです。そして、男性にとってかけがえのない女性を貶める物言いに他なりません。

 

 このような事件を許さないことはもちろんですが、男性の行為を「本能」で片付ける言動にもまた厳しい目を向けていきたいと思うのです。

 

 ということで、この上司にもやんわりと釘を刺したところ、今日から仕事量が増えました。そして同時にその仕事を黙って手伝ってくれる仲間や後輩が現れました。ぼくは

 

 この小さなうねりを大きな波にしていきたいと密かに思っています。

小説 「春と妻とヨーグルトと」

 

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 「トリプルヨーグルト・・・

  …森永ってヨーグルトも作ってたんだ……」

 

 いつも選ぶ商品の脇にある、見慣れないヨーグルトをつまみながら、のぞむは貼り付けてあるポップを眺めた。

 

【これ1個で3役こなす!働き者には働くヨーグルトを!】

【血圧、血糖値、中性脂肪。気になる3つをまとめて面倒みちゃいます!】

 

 ラインで送られてきた食材リスト。すみれの指定はいつもの銘柄のヨーグルトだ。のぞむは手にとった森永のヨーグルトを元に戻し、なじみのヨーグルトをカゴに入れる。が、しばらくじっと棚を見つめると再びトリプルヨーグルトを2つつかんだ。

 

 レジに向かう。並んでいる人とその手元をさり気なく覗く。

 

 「夕方にスーパーに来るサラリーマンはたいてい酒のつまみ用に惣菜を買うぐらいだから、レジの回転が早いのよ。それにカードやお札で払うから、小銭を探す主婦たちよりもスムーズに流れるわよ」

 

 のぞむはレバニラの惣菜に缶ビール2本を入れた背広の男性の後ろに並んだ。すみれの言うとおり、こちらのレジは動きが早そうだ。列の後におさまると、ぼんやりと考える・・・・・・。

 

 のぞむの母が病気になってから、やがて一年になろうとしている。共働きだった我が家の姿は大きく変わってしまったのもこの頃だ。妻のすみれは仕事で重要な立場を任されていたにも関わらず、認知症の診断が下った翌週には職場に辞表を提出していた。

 

「今まで私が仕事で頑張れたのは、お義母さんが家のことをしっかり守ってくれたからよ。今度は私が助けなくちゃ」

 

 親の病気にうろたえるばかりだったのぞむを尻目に、すみれは次々に手を打っていく。同じ病を家族に持つ人が集う勉強会への参加、医師との連絡、ヘルパーの契約や打ち合わせ、家庭でのルールづくりに子どもたちへの対応、井戸端会議を装ったご近所への周知。あれよあれよという間に、病気と戦う母への応援体制を整えるすみれを見て、のぞむは今までいかに妻に頼っていたかを思い知らされた。

 

 ある日、脱衣所に入るとすみれが棚にもたれて寝ていた。乾燥機に入れた衣類が出来上がるのを待っていたのか。椅子に座り、壁に体を預けたまま軽い寝息さえ立てている。心なしか肩が薄くなったように感じる。

 

ありがとうな… すみれを起こさぬようにそっとバスタオルを掛けると、のぞむは脱衣場の扉を閉めた・・・。

 

 

「今日から俺が買い物に行こう」

 

 なるべく普通に言ったつもりだが、すみれは驚いたように顔を上げた。

 

「買い物?お父さん、今まで買い物なってしたことなんてないでしょ」

「いや…うん…お前にばかり母さんのことを押し付けるのは悪いし、俺の親だからな」

 すみれはしばらくじっとのぞむを見つめ、ニッコリ笑った。

 「まずお米ね。5キロで2500円以内のもの。それからトイレットペーパーとティッシュなんかもお願い。それから…」

 「おいおい、そんなにたくさんは覚え切れんよ」

「それもそうね・・・じゃあ、リストを後でラインに送るから」

「うん、そうしてくれ」

 「あっ、大切なことが一つあった。、〇〇のヨーグルトは忘れないでね。私、昨日買うつもりだったのにすっかり忘れてて。」

 

 母のヨーグルト好きを初めて知った。そういえばすみれも好きだったな…。

〃自分の好きな人は親とどこか似ている〃 そんな文句をどこかで聞いた。のぞむは苦笑をすみれに気づかれないよう、咳払いをしながら玄関に向かった・・・・・・。

 

 買い物が終わり、バスに乗る。今日は早めの時間帯のせいかいつもより乗客も少ない。バスの手すりにつかまり、ぼんやりと車窓を眺める。道向こうの桜並木が見える。

 

 今日はすみれにもヨーグルトを食べさせてやろう。それも新発売のヨーグルトだ。オレたち中年の終わりにさしかかる年頃にはいろいろ嬉しいことが書いてあったしな。桜が好きなすみれと、来年も桜を見るためにも、まずは夫婦が健康でなくちゃ。

それに・・・・・・

 

 のぞむは揺れるバスにユラユラと身を預けながら考える。

 

 それに、妻、嫁、母の三役をこなすすみれは、まさに「トリプル」だから、このヨーグルトはピッタリなチョイスってわけだ。まあ、俺だって夫、父、サラリーマンのトリプルではあるけど、妻の三役に比べたらまだまだ気楽なもんだ。

 

 バスが一際大きなカーブを曲がる。つり革に力を込めながら目をやると、我が家へと続く道が見えてきた。

 

 

 

「ただいまあ」  

 

 返事がない。

 

 二階でごそごそと音がする。たぶんすみれが洗濯物でも干しているのだろう。のぞむはすみれに気づかれぬよう、床板のきしむ音を気にしながら台所に向かう。トリプルヨーグルトは食後のデザートまで隠して置いて、終わったら涼しげな器にでも入れて、突然出して脅かしてやろう。のぞむは愉快な気持ちを抑えながら冷蔵庫に向かい、扉を開ける。見つからないように奥の方に・・・

 

・・・あっ!

 

 のぞむは思わず声を上げた。

 

 ヨーグルトがある。しかも今さっき自分が買ったトリプルヨーグルトが4つも。のぞむは状況が飲み込めず、しばらくは冷蔵庫を開けっ放しのままで奥を見つめていた。

 

「あらあら、早く閉めちゃって下さいよ。冷気が逃げて電気代ももったいないから」

 

 いつのまにか妻が改段を下りていた。

 

「なあ・・・あの・・・あのヨーグルト・・・・・・」

「ああ、あれね。昨日買い物したときに目についたから買ってみたの。血圧や血糖値にも良いらしいし、後一つは何だっけ? それに、何より美味しいらしいわよ。隣の木本さんも食べてみたらしいの。本当は昨日食べる予定だったけど、私も忙しくて忘れちゃってたわ。今日の食後に食べてみない?」

「うん・・・・・・」

 

 のぞむは手に持っていたトリプルヨーグルトを後ろに回そうとしたが遅かった。

 

「あら! なーんだ、お父さんもおんなじヨーグルト買ってきたの?偶然ね!もしかしていつものヨーグルト、なかったの?」

 

のぞむは黙ったままエコバックからいつものヨーグルトを出した

 

 すみれは少し驚いたように、二つのヨーグルトを見比べていた。

 

「お父さん、もしかして、そのヨーグルト・・・・・・私に?」

 「あ、うん。なんか体にいいって書いてあったから。お互い歳だしな」

 

 すみれはからかうような目でのぞむを見つめていた。

 

「じゃあ、今日はちょっと贅沢して一度に二個分食べちゃいましょうか。ほら、プリンとかを入れるガラスの器に移して、ちょっとだけオリーブオイルとか入れて」

 

 のぞむはトイレに行くふりをして台所を足早に立ち去ろうとした。そのとき後ろから弾む声が聞こえてきた。

 

「お父さん!ありがとう・・・」

 

 いや・・・ありがとうはこっちのセリフだ。のぞむは小声でつぶやくとちょっとだけ手を挙げ、そのまま廊下を曲がった。やっぱりすみれには・・・妻にはかなわんな。あいつこそ「トリプル」だ。

 

 のぞむは廊下の窓から流れ込む柔らかな風を感じた。桜を散らせるこの風は、同時に新しい季節を運んでくるようだ。青く爽やかな空気が、のぞむを包んむ。

 

 もう春まっさかりなんだな。 

 

のぞむは思わず背伸びをした。

 

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第二章『近づき』 (その3)

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「ゆりの服選びはお楽しみに取っといて、先にぼく達が見立てておいた横溝君へのプレゼントがあるけれど、見に行かないか?」

 Sさんはゆりさんと私とに流れる微妙な空気をよそに、あくまで穏やかな口調でした。しかし私は騙されません。Sさんはこの状況を堪能しているのです。味わっているとも言えるでしょう。それが小さな憤りとも、あるいは共感ともつかない痒みに似た感覚となって私の肌を駆け巡ります。一方で私は自分自身の混乱の中にいることを素直に認めなくてはなりません。恥ずかしさも先立ち、とりあえず気を鎮めるためのSさんの提案をありがたいとも感じました。 

 男性の若者向けブランドが多く集まる階に移動し、3人で私の服を見て回ります。それにしても・・・・・・この老舗百貨店は見たこともない価格の値札ばかりがついています。私は値札を盗み見るたびため息をつき、それとなくお断りの申し出をSさんに伝えました。しかしSさんは「日頃食事会につきあってもらっているお礼を兼ねて」と譲らず、結局高級な夏用ジャケットとブランド物のシャツ二枚、加えて皮のローファーまで選んでくれました。もちろんSさんは私が価格で委縮しないよう配慮してくれましたが、私は相場から合計金額を想像し、概算を想像するだけでクラクラしてしまいました。

 Sさんとゆりさんは、私の服を選ぶために百貨店をけっこう歩き回りました。その時、Sさんが常に先頭を颯爽と歩き、その少し後ろをゆりさんが歩く。更にその後を私が付いていく、という構図になりました。結果として私はいつもゆりさんの後ろ姿を眺めつつ、店内の空気全体を感じることができます。そして、私は二つのかすかな異変に気づきました。

 一つ目は、ゆりさんの服装です。前述したとおり、体にぴたっとフィットする黒いのワンピースは、ゆりさんの美しさを際立たせる格好の選択だったと思います。もともとプロポーションがよい上に、透けるような白い肌の光沢がワンピースの生地の艶と見事に調和し、一枚の絵画を眺め入る心持ちにさえなりました。

 しかし、今までの食事会の影響でしょうか。私は彼女の服を見るとすぐに下着のラインを探してしまうのです。そして今日のワンピースのどこにもそれらしきラインを見つけられないのです。食事会のように一目で裸身だと分かるわけではありません。私は直感しました。ゆりさんは今日も下着を一切身につけていません。

 ゆりさんと向かい合ったとき、それとなく目の前の双丘に視線を走らせました。小さな突起、彼女の息づかいが荒くなるとともに膨らみを増すあの二つの突起があるかどうか、確かめずにはいられませんでした。けれども・・・・・・それは見あたりませんでした。今でこそ「ニプレス」という小道具の存在を知っていますが、当時高校生だった私には知る由もありません。洋服のラインが彼女の肉体そのものとリンクしているのに、その部分だけは生地に反映されていないことを、とても不思議な気持ちで眺めていました。 

 上半身に比べて、下半身はより奔放です。ヒップの形がよくわかるのはもちろんですが、窮屈に押しとどめられている肉体が、当然のごとく薄い生地をさらに引き伸ばそうとしているのです。ヒップの部分は漆黒の光沢が少しだけ薄れる代償として、彼女の白い肌の光沢が内側から色味を見せているとさえ感じます。ヒップの中心に走る深いくぼみ、タテのラインがくっきりとした陰を伴い擦れる様子すら味わうことができました。

 そして、正面は更に淫猥でした。恥丘と呼ばれる女性の部分が、実はしっかりとした質感を伴って盛り上がっていることを、私はあのときに初めて知りました。ヒップほどではないのですが、悩ましい丘もまた自身を閉じ込める薄布の障害を、押しのけるように自己主張をしています。

 以前お話ししたように、ゆりさんには成人女性なら当然あるはずの淡い茂みがありません。少なくとも私には確認できません。従って、秘所とワンピースとのせめぎ合いは、当然つややかな肌と生地との直接の触れ合いに他なりません。そして、どうかすると悩ましい丘陵の形状を写し取る形で、生地が勝利の雄叫びを上げる様子も垣間見られます。秘所のなだらかなライン、そしてゆりさんが体をある方向に傾けるときにだけ現れる、丘を二つに割るかのごとき一筋の窪みを、私は見逃しませんでした。それは余りに美しく、余りに扇情的な光景でした。

 

 二つ目の気づき。それは、これほど官能的な服装に反応する人間が私一人だけであるはずがない、という事実です。私はエスカレーターに乗るとき、全ての男性の視線が彼女に注がれているのを感じます。男性服売り場に到着すると急に空気が色めきたつことに、私は恐れすら覚えました。ゆりさんが目の前を通るとき多くの男性があからさまな視線を投げつけます。ゆりさんが手を伸ばし、しゃがみ込み、そして声を出すとき、周りの男性が舐めるような目つきで彼女の体を見つめるのです。

 〝目で犯す〟この表現を初めて体感しました。言葉の表面的な理解ではなく、体に走る衝撃の一部として受けとめました。もしも男性の視線に熱量があるならば、ゆりさんは瞬く間に焼け焦げていたでしょう。もしも男性の視線が蛇の舌ならば、ゆりさんの体には無数の赤い舌が這い回り、唾液にぬめり、光り、全ての粘膜が嬲られていたことでしょう。 

 そして男性の視線の力が、一層の険しさを伴いながら増幅する瞬間が幾度かありました。それはゆりさんが私の体に服を当ててサイズや色合いを確かめる瞬間です。

「よく見ると、横溝君は意外と背が高いのね。服を当てるだけでも一苦労だわ」

 ゆりさんは笑いながら私の胸にシャツを押し当てて全体のシルエットを確かめます。その時に当たるゆりさんの指、腕、どうかすると腰のあたり。それらの一つ一つが僕を困らせます。ゆりさんが動くたびに、甘い香りが私を幻惑します。近づくにつれて目の前に迫る、ワンピースからこぼれそうな白い胸のうねりに、どうしても目が吸い寄せられていくのです。その瞬間、周りの男性の視線が一層きつくなることも感じました。ある者は、私とゆりさんの関係をいぶかるように見つめ、またある者は自身と私を取り替えて、ゆりさんの体を弄ぶ夢想に耽っているようでした。 

 オーダーメイドのシャツ売り場に着くと、ゆりさんはすぐに店員からメジャーを借りて、私の身体を計測し始めました。私の顎のすぐ下で上目づかいをしながら首回りを図り、後ろに回っては肩幅を測りと忙しく、けれど楽しそうに動き回ります。

「横溝君は胸板は薄めだけど、肩幅があるから実は胸囲はあるほうかもしれないわね」

 突然、後ろにいたゆりさんが、私に抱きついてきました。もちろん、そうしなければ後ろから回した右手のメジャーを、私の胸の前で左手に手渡すことが出来ません。しかしその行為は、私にとってはある種の〃仕打ち〃でした。なぜならゆりさんの体の全面が、特に豊かな胸が、私の身体と密着してしまうからです。

 私は全神経を背中に集中させます。そして柔らかな、しかししっかりとした主張を伴って押し返す二つの感触を味わいました。白桃のような甘い香りと、身体をドロドロに溶かしてしまうような温かな感触が、私の背中をみるみる汗ばませていきます。 

 ふいに険しい気配を感じました。目を向けると男性店員が立っています。彼の瞳はゆりさんの体を犯し、同時にその鋭い眼光が私の体を切り刻む。そのような錯覚をさえ覚えるほどの、嫉妬と羨望の入り交じる強い強い視線でした。

 

 Sさんは・・・・・・Sさんは一体どこにいるのでしょうか?

第二章『近づき』 (その2)

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写真はイメージです

 Sさんとゆりさんは数日早く都内のホテルに滞在し、私の方が改めて現地でSさんたちと落ち合うことになりました。そして当日。私は期待と緊張、そしてなぜかかすかな胸の痛みを覚えながら電車に揺られています。目指すは銀座の某百貨店、受付案内所です。Sさんたちは事前に買い物があるとのことで、百貨店で落ち合うことになっていたのです。

私は電車に乗りながら、ずっとある事を考えていました。

〝もし、ゆりさんが食事会のような服装だったら……〟

 今まではSさんの自宅内、相手はSさんと私だけという状況でした。しかし、土曜日の昼下がりの銀座であの衣装になることは、恥ずかしいというよりもむしろ危険ですらあります。傍に居る私はどう対応してよいかわかりません。そしてふと想像していますのです。多数の目がゆりさんの体を射貫き、その矢に耐えきれず頬を真っ赤にしてうつむくゆりさんの姿を。そして興奮する自分と哀しくなる自分を同時に発見するのです。

〝旅行にわざわざ僕を誘うのは、必ず何らかの理由があるからだ〟

 私はSさんの意図を必死に読み解こうとしました。そうでもしなければ、私の中に穏やかならぬ感情の波がさざめいてしまうからです。

 

 みなさんはもうおわかりでしょうね。私がゆりさんに対して憧れだけではない、恋愛に近い感情を持ち始めていることを。彼女が美しく、そして淫らな服を素肌に纏うとき、興奮と共に一抹の寂しさで心がきしむことに、私は気づいてしまいました。この女性が私のものではないこと、この美しい女性の視線は、私をすり抜けてそのままSさんへ向かっていること。この事実は当然であり仕方の無いことでしたが、つらく感じてもいました。

 私はSさんを本当に尊敬していました。私が、当時の大人に対して抱いていた〝頑な/常識/体制〟のイメージを、Sさんはいつも軽やかに飛び超えていました。そして、そのようなSさんに共感し、畏敬の念すら覚えていました。しかし同時に、Sさんに嫉妬する自分を自覚しないわけにはいきませんでした。Sさんは、私がゆりさんに惹かれているのを知っている。それを承知でわざとこのような状況を設定しているのだ、と感じるときもありました。そのときのSさんに、憤りが湧いてくる自分に恐れおののいてもいました。

 

 一方でSさんに感謝する自分もいました。(ややこしいですね)私は幼いころ母親に傷つけられてきました。そして、大人、特に大人の女性には恐怖を抱いていました。また夫婦とは〝互いに不満を抱き、疑心を持ち、怒りでつながる事だ。〟そう思い込むようになっていました。ですから、たとえ常識とは異なる形であろうと、常にお互いだけを見つめ、触れ合い、そして良い意味で〝縛り合う〟Sさんとゆりさんの関係はとても新鮮でした。

 一見荒々しく見える〝命令/束縛〟。しかしその奥に見える優しさと慈しみを湛えたSさん。服従/羞恥という結果であろうと、常に夫を信頼し、従順なゆりさん。二人の関係は、それはそれは美しいものでした。歪んだ人間観や卑屈な男女観に染まった私を救いだし、愛することの歓びを実地で教えて下さったSさんは、私にとっては一言では言えない不思議な立ち位置にいることを、私はいまさらながらに感じます。

 次第に高まる鼓動を必死に抱え込むように、自分のカバンを強く抱きかかえなおしたとき、電車は煌びやかな銀座の街に滑り込んでゆきました。

 

 百貨店に着くと、すぐに一階の案内所に向かいました。当時は携帯電話はおろか、ポケベルさえない時代でしたから、待ち合わせ場所がとても重要でした。細かく位置を確認し(私の場合は、受付のおねえさんの目の前)、そこで待っていました。5分ほど経ったでしょうか、ふと目を向けると遠くからSさんが見えました。Sさんも私に気づき軽く手を振っています。その後ろにゆりさんがいました・・・・・・。 

 ゆりさんの服装は……普通でした。いえ、厳密に言えば普通では無く「派手」「大胆」ではあったと思います。黒いワンピースは、体のラインがハッキリしているタイトなスタイルでした。生地には光沢があり、背中も大胆に空いています。銀座という土地柄から考えれば、十分に目立つスタイルでした。その証拠にある男性はちらちらと、またある男性は舐めるような不躾に、彼女の肢体を観察しているのがわかります。そして女性たちの目は男性以上に厳しく、羨望と嫉妬に駆られた光を放っています。

 しかし私としては普段の食事会との比較になるので、ごく普通の美しい装いにしか見えず、心のどこかでほっとしていました。しかし改めて見ると大きく胸が空き、豊かなバストの膨らみが堪能できること、そして彼女の白くほっそりとした首には〝黒い首輪〟が巻き付いていることに気付きました。

 今、〝首輪〟と書きましたが、実際黒いレースが白い首に巻き付いているように見えたのでした。当時の私はファッションに疎く〃チョーカー〃と呼ばれるアクセサリーの存在を知らなかったので、ネックレスとは明らかに異なる長さと形状に、思わず〝首輪〟を連想してしまいました。ゆりさんの服装にはよく似合っていましたが、どこか被虐的な香りも漂っています。今から考えると〝首輪〟という連想は、あながち間違ってはいなかったのかもしれません。

「おお、いたいた。待ったかい?女性の買い物は長くて閉口するねえ。」

 Sさんは笑いながら声を近づいてきます。 私の隣に立ったゆりさんから、うっとりするほど甘い香りが漂ってきます。受付のおねえさんも美しかったのですが、ゆりさんの前では霞んでゆきます。おねえさん自身も私の心の動きを悟ったのか、どことなく険のある表情へと変わったようにも感じられました。

「だって素敵なものがいろいろあって迷ってしまうんだもの。仕方ないわよねえ、横溝君!横溝君みたいな紳士なら、文句を言わずにいろいろ見立ててくれるでしょう?」

 ゆりさんはわざと頬を膨らませて、精一杯不満の意を示しながら私に同意を求めますが、私はその可愛らしい仕草だけで鼓動が一泊跳びそうになり、敢えてSさんのほうばかりを向いていました。

「僕も今さき着いたばかりです。買い物はもう済んだんですか?」

「うーん、もう少しだね。僕の方は終わったけれど、ゆりのはまだだな。実はね、横溝君待ちだったんだよ」

「僕を……ですか?」

「そう。実は僕だけではゆりの服を選びきれなくてね。ゆりとも相談したんだけれど、今日はせっかく横溝君も来るから、若い人の目でゆりに似合う服を選んでもらおうって考えているんだ。どうかな?」

「はあ……」

 私は思わず間抜けな返事をしながら、何気なく視線をゆりさんに向けました。ゆりさんの耳は真っ赤に染まり、喉がかすかに動くのが目に留まりました。私と目が合うと慌てて逸らし、彼女の唇からかすかな吐息が聞こえたような気がしました。私はその瞬間に肌が粟立つような身震いと心臓の鼓動を感じました。そしてなぜか、今回の旅行の幕が開演のブザーと共に上がりゆく光景が浮かび上がってきたのです。

二つの「11日」 ー平成を変えた日―

 


今週のお題「平成を振り返る」

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 いつもは私のささやかな人生の中で起きたあれこれを綴るのですが、今回のお題だけは時代を総括するという意味で、少しだけマクロな視点でお話しします。

 私がもっとずっと後、例えば令和20年ぐらいになってから『平成の思い出は?』と聞かれて、思い出すのはきっと「11日」という日付なのだと思います。

 9月11日。あの日、テレビで見ていた光景が現実のものであると分かるのに、しばらく時間が掛かりました。まるで特撮映画のようにゆっくりと大型旅客機が高層ビルに突っ込んで黒煙が上がっていきました。そしてジェンガのように巨大なアメリカの象徴が崩れ落ち、濛々と粉塵が舞い上がる様子は今でも脳裏に焼き付いて離れません。

 あの日以来、世界の何かが変わりました。「もう二度と戻れない」。心の中で何かが壊れた気がしました。どこに戻れないのか、なぜ戻れないのか、何が壊れたのか。今でもよくわかりません。しかし、確かにあの日、世界は変わってしまったと感じました。

 「わかり合える」「話し合える」「また手をつなげる」。ベルリンの壁が壊れたときの高揚感、自分とは直接関わりがないけれど、人類の智恵が、人の持つ醜い面を乗り越えることが出来た!と嬉しくなった日が、一瞬にしてはじけ飛びました。悲しく、辛く、そして何かに怯える日が始まったあの日。9月11日でした。

 

 3月11日。私が車を走らせていると、娘達から電話が。「お父さん、津波が来るかも知れないからって学校から帰されたよ」。はじめは何を言っているのか分からず、とんちんかんなやりとりをしていましたが、娘が「お父さん、車を停めてテレビをつけてごらんよ」と言われ車内モニターを付けたそのとき

「!!!!!」

 田畑を猛烈な勢いで黒い液体が覆っていく様子飛び込んできました。小さく動いているのは車でしょうか?人でしょうか?一瞬にして次々と黒い波が飲み込んでいきます。

いつ?どこで?

 私は急いで車を飛ばすと、家に帰りました。

 私の住んでいる場所は東北から遠く離れた所です。実害はまったく有りませんでした。しかし、テレビの前で起こっている出来事が同じ日本であることを信じることができませんでした。

 祈るだけでした。ただそこに住む人々の無事を祈ることしかできませんでした。辛く歯がゆく、そして己の小ささ、人の弱さ、科学のもろさを嫌というほど感じました。

 しかし、そこから人のつながりを、勇気を、見ることになります。がれきの中から、泥流の中から、ぽっかりと青空の見える柱だけの建物から、東北の人々が建ち上がる様子を、厳かな気持ちでずっと見つめていました。人の愛と勇気と希望、人の連帯と絆と優しさを見ることになりました。3月11日。忘れられない日です。

 

 私が平成を思い返すとき、きっと「11日」がキーワードになると思います。と同時に、この二つの日が私に何かを語り続けるその声に、今でも耳を傾けなくてはいけないと心に刻んでいます。

 

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